「小町風伝」の少尉役

「小町風伝」の少尉は小町が蓄音機にかけた「バラ色の人生」にのって登場します。小町の幻想=思い出の中の恋人なわけです。私は小町を恋焦がれる思いを胸に、舞台に現れます。と、私の目の先、2メートルの所に小町がいます。私に背を向けて、「バラ色の人生」に思いも体も浸らせて、私の前をゆっくりとたゆたうように歩いているのです。私は小町の後をついて歩き始めます。これは小町と私の逢引なのです。それも現実の逢引ではなく、私にとっても幻想の。

というのも、私が演じる海軍少尉の役は深草の少将の現代版なので、小町と現実には会うことのないまま百夜小町のもとへ通ったという謡曲の設定を受け継いでいます。したがってここでの私は、小町を思いながら、つまり小町との逢引を想像しながら小町のもとへ通う少尉なのです。そのように小町のことを思いながら小町のもとへ通う少尉を年老いた小町が思い出の中に蘇らせている、というのがこの場面なわけです。したがって私にとっては、私の前を行く小町は私の思いの中の小町なわけです。そして私には声に出すべき台詞が与えられていません。ここでもし、私に台詞があったらどうなるか、ちょっと考えてみます。

たとえば「小町さん!」と呼びかけたとします。それを聞いて、小町は立ち止まる。再び私は呼びかける。「小町さん!」小町は振り返る。小町と少尉はお互いを見る。しばしの間の後、少尉が小町の側に寄る。小町の手を取る。……これも一つの夢の形かもしれません。あるいはこんなことも起こり得ます。……「小町さん!」と呼びかけたのにもかかわらず、小町さんは立ち止まって振り返ろうともしません。私はさらに声を大きくして「小町さん!!」と呼びかける。それでも小町は歩き続ける。私は気が狂わんばかりになって小町に追いすがり……これもあり得ることですよね。つまり私が言いたいことはこういうことです、台詞が語られるというのは、ある現実的な行為に役者を導くことであると。ところが私には台詞がありません。このことをこの文脈で考えると、「小町風伝」の中では少尉という役は小町に現実的な行為を働きかけることができない役として設定されている、ということになるのです。

再び実際の舞台に戻ります。私の二メートル前を小町が歩きます。私はその後について歩き始めます。一息ごとに、小町の匂いを嗅ぎながら。…私の役は台詞がないことで、小町に具体的に働きかけることを禁じられているのです。それでも小町への思いは一足ごとに強くならなければならないのです。それをどのように演じたらいいのか…私は一息ごとに濃くなる小町の匂いを感じようとすることで、この場面の少尉を演じてみました。もちろん実際に小町の体臭が匂ってくるわけではありません。あくまでも幻想の中で小町の匂いが膨れあがって、自分を取り巻いて、その中で小町がどんな顔かたちだったか、あるいはどのような声だったかも思い出せなくなるほどに、我をも忘れかけて小町を思う少尉を演じてみたのです。前回に書いた「更新する現在」とはこういうことです。小町を匂いで感じること。その感覚が一息ごとに強くなる、その匂いの中に歩み入ることで、小町を巡る迷い道に踏み込んでいくかのような自分を意識すること。一息ごとに強くなる小町の匂いを、役者として一息ごとに新鮮に感じ続けようとすること、更新する現在とはこのことを意味します。

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BS2の「小町風伝」

もうひと月以上も前になりますが、転形劇場時代の「小町風伝」がBS2で放映されました。何度も再演した舞台なので、いつの時の録画か明確ではないのですが、おそらく25~6年前の舞台だと思います。あの日は帰ったのが12時を回っていましたので、遅い晩ご飯を食べながら、TVのスイッチを入れてみました。で、実際の舞台が始まるまでの長いこと長いこと。三十分ほどでしょうか、評論家のW氏と俳優であり演出も行うT氏との対談というか、T氏は聞き手で、主にW氏が語っていらっしゃったのですが…忙しさに忘れかけていたのを、今日たまたまそのことが職場で話題になり、思い出してしまった、というわけです。で、何を思い出したかというと…私が腹を立てたということを…W氏のおしゃべりに腹を立てたということを思い出したのです。で、それを身内に抱えたままでいるのは健康によくないので、ここでちょっと書いてしまおうと思ったわけです。

その三十分のおしゃべりで、W氏が転形劇場と大田省吾のことを彼なりの言葉できちっと語ったのは、冒頭の数分、転形劇場の初期の舞台である鶴屋南北作・太田省吾演出による「桜姫東文章」を見たときの感想のみ、だったように思います。その後は、能のこととかはお話になっていたけれど、転形劇場と大田省吾にとっての沈黙劇とは…、あるいは遅いテンポとは…、といったことは一切語られていなかったと思います。聞き手のT氏が、「舞台上の俳優がしゃべらないぶん、見ている自分の心の中で、いろいろなことが動いていたのが新鮮でした」というたいへん興味深い感想も、きちっと受け止められずに、W氏は何を語ったか!?たとえばこんなふうに言っていましたっけ…「転形劇場の遅いテンポは現実の時間を引き延ばしたものですよね。能の遅いテンポはそれとは違うんです。あれは死者の世界からやってくるわけですから、それを演じる役者の意識は実は素早く動いているんですね、現実の引き延ばしとは違うものなんですよ」…という意味合いのことを話していられたけれど、「現実の時間の引き延ばし」っていったいどういうことですか?私自身、あの舞台に海軍少尉の役で立っていましたが、そして「バラ色の人生」の曲にのって、通常よりは明らかに遅いテンポで登場してきましたが、現実の時間を引き延ばして歩いてなど断じてしていません。だいたい、「現実の時間の引き延ばし」ってどういうことを指しているのでしょうか?

W氏には転形劇場の遅いテンポは、いわゆるスローモーションにしか見えなかったのかもしれませんね。「現実の時間の引き延ばし」ということは、そういうことだと思います。では、私が登場する時、私はどういうことを意識していたのでしょうか?それは「常に更新される現在」という状態だったように思います。

転形劇場の研究生の一年間で、私は多くの大切なことを太田省吾から学びました。その一つが、「台詞は最後が大切である、最後を結論として言い切ること」ということがございました。これはどういうことかと言いますと、言葉というのは、既に心(頭かな)の中にあることが言葉になって口から出てくるのではなく、まだ漠然とした意識の動きが、言葉となって発せられる瞬間に初めて明確な形となって自分自身にも意識される、ということでした。たとえば滅茶苦茶旨いものを口に入れたとします。そのときの意識の動きを細かくみてみると、まず何とも言えない心地よさ、というか快感が唇や歯や舌に感じられて、そこから「旨い!」という言葉が脳裏に浮かぶか口から出るかして、「旨い!」という感覚が明確になる、というわけです。もう一つたとえば、怒る瞬間。何らかの強烈な不快感に思わず身内がわなわなと騒ぎ始め、血管がきゅっと締め付けられる感じがして、思わず「バカヤロウ!」という怒声が上って、そこで初めて自分が怒っていることが周囲にも自分にも明確になるのです。だとすれば、台詞がない、ということはどういうことなのか?つまり、自分の意識状態を明確にするべき言葉を持たずに舞台に立つとはどういうことなのか、その時、役者は何をどう意識して舞台に立っているのか?

ちょっと長くなりましたので、この先は次回にいたします。ということで、次回は「小町風伝」の海軍少尉の役を私がどう演じたか、というようなことを書いてみようと思います。その上で、転形劇場の遅いテンポは「現実の時間を引き延ばしたもの」とはまったく異なるものであることを理解していただきたいと思っています。

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中途半端な日々

中途半端

その① ドストエフスキーの「悪霊」を読みかけているのですが、もうひと月以上、読みかけのままになっています。滅茶苦茶面白いけれど、今は読み続ける余裕なし。物語は佳境に入りつつあるのに、いつになったら先が読めるのか…

その② 新作の台本。K出版社の社長氏からの申し入れで既に題名が決定。主人公は中学校の教師という設定でいくことに決定。実際の「先生」にも何人か取材させていただいて、と目論んでいるのですが、公演時期が再来年秋になりそうで、ちょっと小休止。

その③ ならばと、来年の6月に小川国夫氏の「アポロンの島」のリーディングを企画。ちょっとワクワクしてきたところ、どうも会場がままならず、再来年の2月ごろに延期になるもよう…う~ん…

その④ そんなところに、岩手で劇団活動をされているK氏から、「水の花」の岩手公演のお誘いがかかる。わざわざ東京まで先日の公演を見に来てくださり、「40代~50代という、最も演劇鑑賞年齢から遠い世代が共感できる、マレな舞台だった…」との手紙を添えて、誘ってくださっている。行きたいのは山々ですが、私たちにも生活という重い足枷があって…これも再来年をめどに、仙台公演も視野に入れてなんとか実現させたいのですが…

というわけで、今はとにかく稽古が進んでいる横浜青葉区小・中・高生ミュージカルに集中しなさい!ということと受け止めることにいたしました。

ミュージカルの本番は2009年1月24・25の両日です。

興味のある方は是非!

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あらためて勇気を!

昨年の公演「孤独な老婦人に気をつけて」もさまざまな反応がありましたが…(シアターアーツから上演台本掲載の申し出があったり、同誌上でE氏が昨年のベスト舞台の一つにえらんでくださり、またベストアーティストの一人に私の名前を挙げてくださったり)…今年の「水の花」は規模が小さかったのに、それでもいろいろな反応がございました。

その一つ…次回作のタイトルがどうやら決まりそうなのです。というのも、K社という出版社の社長氏がその会社で出版している熟年離婚をテーマした本を素材に新作を書いてみないか、と提案してくださったのです。早速本が送られてきて、読んでみると…いや、面白いですよ、たしかに熟年離婚の話はしょっちゅう聞かされますし、といいますか、今や離婚は日常茶飯事、こういう仕事で小学生中学生と関わっていますと、急に姓が変わる子どもはちっとも珍しいことではありませんし…そうだ!主人公を中学校の教師にして新作が書けないだろうか…荒れる学校の手がつけられない生徒の一人が親の離婚にその原因があり、その生徒たちを相手に悪戦苦闘している教師の家も、実は目下離婚の危機に直面していて…という設定で書いてみようかと…「水の花」ではザ・タイガースの音楽を使いましたが、次回作ではサイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」がテーマミュージックになりそうで…と構想は広がりつつあり…こうなったら実際の中学校の先生に取材をしてみたいなあ…と思っております。

もう一つ。「水の花」のDVD、思ったより注文があります。思ってみれば、いつもいつも「いいものを創ろう」とばかり考えていて、創ったものを、あるいは自分たちを売ろうという発想は皆無だったなあと…そういう意味ではDVDの発売を勧めて下さった方々に感謝です。本番を三回も撮影して編集に当たってくださった映像作家のMさんも、「これだけつき合っていると、台詞まで覚えちゃいそう」と仰りながら「面白い作品ですよね。違う役者さんがやったら、また違う味の舞台になるんでしょうね」などと、書き手としては非常に嬉しいことを言ってくださいました。

そのDVDを自分見たおかげで、この作品はいずれ改訂版で再演をしようと決めました。なにせ演出の私が主役といいますか出ずっぱりでしたからね、分らなかったこともいろいろあって…でもこれ、ちょっと手直しをすると、本当の意味で珠玉の舞台、といっていいものになると確信しました。そういえば、感想を送ってくださる方もいましたし、どなたかのブログで「静かな秀作」と評されましたし、いろいろ話題にもなったようで…あらためて勇気をいただきました。

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またまた久しぶりになってしまいました。9月の「水の花」公演のあとは、すぐに立教での後期の授業が始まるし、ミュージカルの稽古も始まるし、U・フィールドの次回作品に外部から注文があったりと…(詳しい話は後日に)…相変わらずのめまぐるしいまいにちで…その間に母親を病院に連れて行ったり、親戚の法事があったりなどなど…

11月1・2・3日と世間は三連休の間、私は地元相模原の中学校演劇大会「風っ子演劇祭」の講師をつとめてまいりました。今年は例年に増して面白かった!男子生徒が増えたんですよね、相模原は。K中学など32人の部員の半数16人が男子。劇の始まり、緞帳が上がるや16人の男子部員全員でのダンスから劇がスタート、圧巻!の感あり。またT中の舞台では一年生男子二人が大活躍。顧問の先生によるオリジナル台本も中学生それぞれの個性を引き立てる楽しい台本で、客席には笑いの渦が巻き起こったり…これはT中かK中か、どっちかは県大会に推薦して相模原の男子演劇部員を桜木町の舞台に乗せてあげたいなあ…などと思っていたのに…

三日目の舞台はさらに充実。O中の舞台は、よく中学生でここまで演じられたなあ(もともとは高校演劇の台本だったので)…つくずく感心!きっと何度も何度も話し合いを重ねてきたんだろうなあ…見ていて嬉しくなりました。でも推薦枠は2校だから、どちらかの男子部員は行けるんじゃないかな…と思っていたのに…最後のS中がまたなんとも中学生でなければできない淡い恋の始まりを描いて…それが大げさな演技がないぶん、大人の劇を批評する言葉を使えば「抑制がきいてる」ぶん、見ている者の心にじわっと沁みてくるものがあって…ああ!残念!相模原の活きのいい男子部員たちは桜木町の舞台には届かなかった!!

神奈川県大会は12月6・7の二日間。横浜桜木町駅から歩5~6分の県立青少年センターの大ホール。O中・S中がさらに充実した舞台を創りだしてくれることを願いつつ…男子部員たちも、今年は舞台は遠かったけれど、応援なら客席からできるわけだから、見に来てくれると嬉しいんだがなあ…それと相模原とは違った芝居もみられるはずだしさ、きっと刺激を受けると思うよ。

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ようやく終わった、というか、いつものことなのですが、始まってみたら、あっという間に終わっていたといいますか…U・フィールド公演No.26「水の花」…うーん、いつの間にか26回を数えていたのですね。No.1「グレー」の時には現在中学2年の息子はまだ影も形もなかったわけですから…あれが1990年の5月のはずだから…あれから18年かあ…

…転形劇場がなくなった今、ほかにやりたい劇もないし入ってみたい劇団もないんだから、とにかく集まって稽古をやってみようや…と転形劇場に同時期に入団した連中を中心に週に2~3回集まっていたかしら…そこでやっていた即興の稽古が面白くて、それを核にオリジナルの台本を作って公演を打ってみようか…ということになって~♪これっきり これっきり これっきり♪~なんて山口百恵さんの歌があったけれども、一回こっきりでもかまわない、とにかくやってみようということで…

「クソッタレ クソッタレ クソッタレ!」という言葉が台本の最初の言葉。転形劇場と大田省吾さんの呪縛から自らを解き放つためのおまじないだったのかもしれませんね、この「クソッタレ」は…私は舞台裏で自分の出番を待ちながら、劇の進行に、お客様の反応に全神経を集中していたと思います。そして30分が過ぎて自分の出番がやってきて…これはダメだな、あまりにも静かな客席の様子に私は覚悟を決めたものでした。とにかく全力を尽くしたのだから後悔はないはずだ、と自分に言い聞かせて舞台に上って…それから5分後、客席には笑いの渦が巻き起こっていたのでした。終演後、いろいろな方から祝福を受け、「これから先が楽しみだなあ…」と心からの激励を受け、そして励んできたつもりだったのに…

あれから18年かあ…ある程度の評価を受けたこともあるし、見に来てくれた太田さんから「こういった劇の作り方は世界に通じる可能性を持っている」などと言っていただいた時もあったのに…決定的な作品を創り出せないまま18年がすぎてしまい…昨年の七月に太田さんは亡くなった…

私は自分の原点に帰ろうと思った。役者に復帰しようと。舞台に立つ、ということは、世界と向き合うことです。世界の中にたたずむことです。世界の中の小さな一点にすぎない自分を、極小の一点ではあるが、まぎれもない自分を確認することです。他者の目を通して自分の小ささを微小さを、しかし微小ではあっても他とは違う自分を確認すること、そのためにこそ、私は舞台に立つのです、自分の体を意識して、呼吸を意識して、視線を意識して、姿勢を、手の位置を、足の運びを意識して…そのようにして私は今回も「水の花」の舞台に立ちました。

開演時間になると、鳥のさえずりが聞こえてきます。水の流れる音も聞こえてきます。遠くで子どもたちが遊んでいるような声も聞こえてきます。舞台には緑の蔦草がからまり、ところどころに小さな菊が群れて咲いていたりして…そこへ私が歩み出ます。懐かしい公園を歩く気持ち。目には緑が優しくて、木々の香りも漂うようで…ここでずいぶん遊んだんだよなあ…という言葉も意識のうちを横切っていったり…そのようにして舞台の中の公園に歩み入っていくとき、私の意識の産物でしかない公園が、劇を見ている観客の皆さんにも感じられてくるのです。「舞台の上の私の体」を通して、私の意識と観客の意識が出会い、合流していく。他とは違う自分が、劇を見る観客一人ひとりの意識の中に息づき始める…

「水の花」多くの賛辞もいただきました。また同時にまだまだ至らない点の指摘もいただきました。それらを励みに、また歩き始めてまいります、新たな舞台と、そして観客の皆さんとの新たな出会いを求めて。

2008年 9月17日

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忙しいのに楽しくて

長らくご無沙汰してしまいました。本格的に役者をやるのは本当に久しぶり、こんなにもワクワクしながら緊張し、ウヒヒヒと面白くなったとたんにクソッと自分を罵りたくなったり、まあ、面白い分、月日がアッいう間に飛び去りつつあります。「今回は台詞が多い!」やっと半分覚えたのに、まだあと半分覚えねば!とにかく、「暑い暑い暑い暑い」とボヤキを連発しながら、役者三人、稽古に精を出しまくっておりますので、どうぞ本番を楽しみにしていてくださいね! とここまではU・フィールドのご報告。

ところで、メッセージボードにも書きましたが、ドラマ・リーディングに役者としては初挑戦いたします。村尾悦子作・「ホーム・カミング・ロード」 面白い台本です。読んだ印象は大田省吾とフェリーニを合わせたような、といいますか…稽古が三日しかないということで、どうなんだろう…と思っていたのですが(まあ、そういう条件でしたので、新作の稽古中でもお引き受けできたのですが)…演出意図も明確なので、ちょっと面白いリーディングなりそうなので、紹介したくなりました。

やるのは7月24(木)19:30 と 26日(土)14:00

場所は 池袋シアターグリーン(BASE THEATER)

私がやるのは「老人」という役なのですが、いい役ですね。それと言葉がたいへんいいんです。選ばれている、といいますか。目下稽古を重ねている私の「水の花」とは全然感触が違う言葉が選ばれていて、それも、二つを同時進行させている私にとっては新鮮なんですね、きっと。

興味のある方は、是非私までメールを送ってくださいませ。メールアドレスを記しておきます。i-hiro1014@jcom.home.ne.jp

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こっぱずかしい!

昨日、9月公演「水の花」の初稽古があり、出演者3名が集まっての初読み合わせ。演出は私だから本当に3人だけの稽古場。ちょっとさびしい気もしますが、それだけ言いたいことを言って、やりたいようにチャレンジできる場にしよう、そういう他の2人の心意気?…みたいなものが感じられて、ちょっと勇気がわいてきましたが…

ここのところ時間があると、図書館から借りてきたジャン・ジュネの「恋する虜(とりこ)-パレスチナへの旅」を読んでいます。ジュネが死んだのが1986年ですから、それからだって20年が過ぎているのに、パレスチナ問題は未だに解決されず、今日の新聞にも「希望が持てないパレスチナの若者たち」というような見出しの記事が載っていました。明日の5月15日がイスラエルの建国の日=中東戦争が始まった日であり、パレスチナの人々が国を奪われた日だからなのでしょう。しかし、今回の芝居「水の花」はそんなパレスチナのこととは無縁です。イラクでは戦争が続いているし、中国ではチベットを含む少数民族の人たちが自治を認められずに苦しんでいるかもしれませんが、そういうこととも無縁です。日本では硫化水素自殺が相次ぎ、いったいこれはどういうことなんだ、そんなに生きてることに希望が見出せない社会になりつつあるのか…と背筋が寒くなる思いがしますが、そんなこととも無縁で…同窓会帰りの二人の男、56歳の二人の男の中学時代の劇(宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」)の思い出や初恋の相手である荒川ミユキとの思い出が語られ…ああ、こんな芝居に意味があるのだろうか?中年男のノスタルジーじゃあないのか、金を貰って見せる価値があるのか、俺はバカなんじゃないのか、いや、作家としての力量が絶対的に不足してるんじゃないだろうか…等々…次から次へと疑問が押し寄せ、じっさい恥ずかしくってしょうがないのですが、それでもこの劇を3人で稽古します。そして上演します。パレスチナやイラクや中国や日本のいろいろなことに目を向けているように思っている自分もいることはいますが、こんなことしか考えてない自分だって自分なんだもの、もしかしたらこの恥ずかしい自分こそ、いちばん自分らしい自分かもしれない、いや、きっとそうなんだよ、だから演じる自分に当てて書いたのが今回の台本で、つまり自分への当て書きなんだよね、くっそ、もっとかっこいいやつ書ければいいのに、よりによってかっこ悪いしなア…

ジュネの本は明日で貸し出し期限が切れるので、まだ三分の一しか読めてないけど(彼の本は時間が掛かるう!)、図書館に返します。ここからは台詞も覚えないといけないし、役者に集中していきます。今回の芝居は体を意識して書いたつもりです。それはどういうことなのか、稽古しながら考えていきたいと思っています。このブログもあまり書けなくなるかもしれません。でも、応援してください。是非、いい舞台にしたいと思います。恥ずかしいけれど、これが今の自分だとしたら、その飾らない自分を是非見てください。

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ジャンガストの視線

一昨日(5月2日)立教のワークショップで<見るー見られる>というエチュードをやったせいかしら、その日の深夜、台所で食器の片付けをしていると、急にジャンガストという人名が浮かんできました。小川国夫の小説に登場する人物の名前です。舞台はフランスの田舎町(だと思う…)の酒場。そこで主人公の浩をじっと見つめている男がジャンガスト。背が大きく、ボクサー上がりで、きっと顔は少しつぶれたところがあるのかしら…、そのジャンガストがカウンターでコニャックを飲みながら、じっと浩を見つめている。やがて、ジャンガストは浩のテーブルまでやってくると、立ったままじっと浩を見下ろすことになる。

<浩はそれに気がついたが、そのまま新聞を読んでいた。…(中略)…酒場は静まり返った。浩は自分達が酒場の中心になったことを感じていた。>

一触即発の緊迫した場面である。荒々しい言葉は一つもないのに、暴力の予感で満ちている。一方的に見ているジャンガスト 対 一方的に見られている浩。

結局暴力沙汰は起こらずに、二人は言葉を交わす関係になっていくのだが、そこでもまた<見る><見られる>という関係の中で再び静かな対決がある。

「ヴィエトナム人かね……」「いや、日本人です」「ヴィエトナム人と日本人はどう違うかね……」「さあ……ヴィエトナム人の方が花車のようだな……」「そうかね……あんたも細い手をしている」「日本にいれば細い手じゃない」と浩は自分の手を見ないで、いった。ジャンガストは、テーブルの上に置かれた、浩の手を見ていた。浩は、自分の手を動かさないように、怺(こら)えていた。

やがてジャンガストの妻がヴィエトナム人の男に奪われたことが語られ、さらに6歳だった一人娘を海で失ったことが語られて、短い小説は終わるのだが…

食器の片づけを終えると、私は急いで二階へ上がった。本棚からこの短編が収められた「アポロンの島」を抜き取り、声を殺して読んでみた。急に小川国夫の小説が語りたくなったのだ。ジャンガストの話は「貝の声」、さらに「枯木」「エリコへ下る道」と声を殺して読んでみた。…面白い。これは語ってみたい。観客の前で語ってみたい。以前、ある方から「語り」を勧められたことがある。彼女はカミユの「異邦人」なんかいいんじゃないかなあ…と言ってくれたのだが、うーん…、と決めかねていた。しかし、このとき、「これだ、小川国夫だ!」と思った。

彼の作品には人間の体が顕わになる瞬間があるのです。そこを語りながら演じてみたい。それこそ、役者井上にとってもっとも関心のあるテーマじゃないか。是非実現させてみたいと思っています。どうぞご期待ください。

 

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すぐ側にある別世界 2

インスタント盲人体験のワークショップの最後に、こんなことを話してみました。現在中学2年の息子が3~4歳くらいだったかしら…

当時、彼は保育園に通っていて、朝は女房が保育園に送っていくのですが、帰りは、劇の稽古などがあるとおじいちゃん(私の父)にお迎えをお願いしていました。80歳での初孫、それはそれは可愛がってくれていて、お迎えも苦にせずしてくれたので私たちには大助かりでしたが、一つだけ困ったことがありました。おじいちゃんがお迎えに行くと、必ず玩具(おもちゃ)が増えるのです。帰り道の途中にマルエツがあって、そこできまってねだられるわけです。それで、おじいちゃんに「玩具は買わないで」とお願いし、「うん、分った」と言ってくれるのですが、それでも玩具は増えるばかり、「困るんだよ」と言うと、「いや、こっちも困っちゃうんだよ、玩具の前で動かないんだから」…

子育てで知ることはけっこうあるもので、私たち大人と、幼児ではスーパーマーケットは全然違う顔を見せるのです。その典型が幼児向けの玩具。ああいったものは、幼児の目線の高さに配置されているんですよね。ですから、大人に手を引かれてスーパーの店内を歩くことは、幼児にとっては玩具の誘惑を受け続けることになるんですよね。大人は晩ご飯のおかずは何にしようかなあ…と、ひき肉や鶏肉を眺めながら歩いているのに、子どもはウルトラマンや怪獣のフィギュアやポケモンやアンパンマングッズの林の中を歩いていたりするわけです。つまり大人と幼児とでは、スーパーマーケットが全く違う世界として体験されている、ということになります。さらに子どもによって、ウルトラマンに強く引かれる子と、仮面ライダーに夢中な子では世界が異なってくるでしょうし…このことを押し進めて考えていくと、現実の世界は一つでも、体験される世界は、そこに人が十人いれば十の世界体験が、百人いれば、百の世界体験がある。ということは、千人いればそこには千の世界がある、と言えるのではないでしょうかと…

つまり、私たちとは一人一人が別世界に暮らす者たちの集まりではないのか…と。

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すぐ側にある別世界

<感じる>ということについて、最近の体験から。

先日、立教のワークショップでインスタントの盲人体験をしてみました。二人一組になって、一方は目をつぶり、一方が手を取って散歩のようなことをしたわけですが、室内から外へ出た瞬間、私が手を引いていた学生のSU君が思わず、「おっ、おっ…」と声を発します。どうしたのかなと思っていると「陽の光ってすごいんですねえ…」と言うのです。十数分後には、今度は私がにわか盲人になって手を引かれたのですが、そう、4月末の太陽の光は、私の瞼の裏を真っ赤に染め上げてくれました。それで、しばらくする散歩を続けると、すぐ側で犬が「ウッ…ウッ…」と唸るのです。なんで犬がキャンパスに…?まさか俺を襲ったりしないだろうなあ…などとちょっと怯えていると、同じ所から「ナニ?」と呟く声が聞こえます。ああ、これは犬じゃなくて、ワークショップでにわか盲人を体験しているSI君が何かに触れて発していた声だと知りました。SU君が陽の光に驚いたように、SI君も何かに驚いていたのでしょうね。

その日、私が一番驚いたのは、外から室内に戻った瞬間でした。「えっ、こんなに空気が違うんだ、まるで別世界だよな」…心地よく流れていた風が一瞬にして途絶える、自分を取り巻いて聞こえていた物音、鳥のさえずりや学生たちがボールで遊んでいるざわめきやらがいっせいに遠のいていく感じ…つい一時間ちょっと前に、私は今と同じ道を通って、同じ入り口からこの建物に入ってきたはずなのに、その時はこの空気の違いにまるで気がつかなかったよなあ…

目を開いているか閉じているかで、世界の感じ方はこうも違うのですね。これは目を閉じること、視覚からの情報をシャットアウトすることで、他の感覚を鋭敏に意識するようになった結果の出来事ですが、俳優というのはいわば、この感覚の鋭敏化を舞台の上で目を閉じないで意識的に行う者なのではないでしょうか。

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意識のダンス 2

転形劇場で太田省吾さんが最後に創った舞台は「水の休日」でした。舞台一面に薄く(5センチぐらいかな)水を張って、水面が鏡のように物体や人間を反射して、時には漣がゆれるようで、きっと見ている分には美しい舞台であったろうと察するのですが…舞台に立つほうはそれはもう格闘技のようなところもあったように記憶しております。

その作品で、私は夜空に精子の星をちりばめたのですが、これは太田さんの「抱擁ワルツ」から引用されている場面でした。私は掌の精液から精子を宇宙に飛ばしたわけです。これにはいちおう歴史がありまして、この舞台の初演では、品川徹さんがたしか指先に息を吹きかけて夜空に飛ばし、追加公演でこの役を演じた大杉漣さんは指先を空に押し当てるようにして精子の宇宙を作っていたのです。私の好みはと言えば、品川さんだったのですが、真似をするのは嫌なのでひとひねり、指先を弾いて精子を夜空に飛ばしてみました。で、問題はここからです。飛ばし方はそれぞれでも、転形劇場の役者は舞台の上に精子が星のように輝く夜空を見ることが、たとえ見えなくても、星空を感じることができたのです。品川さんも大杉さんも、そして私も。ところがです。この同じ劇を新劇のある劇団の、それこそ映画やテレビでもおなじみの俳優さんがやられたのを見たのですが、とにかく希薄なのです。何がって、彼の頭上に星空が広がるはずなのに、彼には星空が感じられていない、感じられているとしても非常に希薄な、おざなりな星空なのですね、どう見てもこれは。つまりはこういうことです。感じること、なんですね、意識する、ということは。星が散りばめられた夜空を感じているか否か、それを意識に上(のぼ)せているか、否か。太田さんが常に問いかけていた意識、というのはこういうことだったと思います。

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牛・豚・鶏

前回の同時進行はすべて芝居の仕事でしたが、これに毎日のビフォー・ナインの仕事がからまります。某大手スーパーマーケットの朝の品出し作業なのですが、9時の開店時間に間に合うように、トラックで運ばれてきた商品を売場に陳列するわけです。最近、肉の売場の担当になったものですから、毎朝毎朝、牛・豚・鶏の肉と格闘しているわけです。

オーストラリア産牛・豚ミンチ100g単価99円の400gパック、250gパック、100gパック…国産牛・豚ミンチ100g単価128円300gパック、200gパック、100gパック…ほとんど見た目は変わらないのに単価が違っていたりして、けっこう気を使うのですが、それにしても、いったいこれだけの肉のために何頭の牛や豚や鶏が処理されていることか…肉の塊が入っていた運搬用の幌つき台車に首を突っ込むと、オッ獣クサっ…その瞬間、初めてヨーロッパに行って、肉屋に入った時の印象がワッと蘇って…

日本の肉屋は上品というか、うまくその辺を隠しているというか…あちらの肉屋は締められた鳥が天井から吊るされていたりして、匂いも生臭ければ光景もなまめかしくて、いやでも俺たちは獣の命を奪っているんだという感じがゴロッとあって、狩猟民族なんだよなあ…と感じていたのですが…

さっき女房が買い物をして帰ってきて、私が買い物袋から冷蔵庫にしまったのですが、グラム99円の牛豚ミンチ400gパックがひとつ、今朝、私が陳列したパックでありました。ありがたく食させていただきます。

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同時進行

今年一番の山場は9月9日~14日のU・フィールド公演「水の花」であることは間違いありません。さあ、それに向かって集中!…と、いきたいところですが、来年一月末に再出発公演が決まった横浜青葉区の小・中・高生ミュージカルの準備が始まっており、なんといっても制作者がいない集まりですから、スタッフの人集めから私自身も動かなくてはいけないし、また4月から新学期がスタートし、去年までの戯曲演習に、新しく身体論ワークショップなる授業がプラスされ、学生との出会いが広がるのはそれで楽しいものの、準備は2倍かかるし、一昔前の自分だったら、とうに爆発しているだろう忙しさなのに、最近はどうも忙しい中で人と会うのが楽しみになってきていて、それが創作にも刺激を与えてくれているようなので…それにしても目が回る。

U・フィールドの目下の仕事はチラシ作り。表のデザインが出来上がってきたので、今日は裏面に載る文章などを考えなければいけなかったのに、つい昨日あった授業のことを考えたり、三月の末にあった、ミュージカルのワークショップメンバーによる小公演のことを思ったり…そこでね、こんど6年生になった女の子が初めてソロで歌ったんですよ。それが嬉しいビックリでね、いいのですよね、「へえー!」初めて練習で彼女のソロを聞いたときは、正直驚きました。3年生の時から知っている彼女ですが、歌は合唱でしか聞いてなかったからなあ…このワークショップを企画して実現してくださっている、かめおかさんに大感謝です。その小公演、仕事が重なっていて見に行けなかったので、今日、いただいたDVDを見てみたのです。「つながる つながる すべては つながる…」(かめおかゆみこ詞・金子忍作曲)…声は伸びやかで、ふくよかな響きがあって…彼女の歌声はやはり最近の新発見、来年のミュージカルの楽しみが一つ増えました。

さて、チラシの文章、あしたこそ、と念じつつ、今日はそろそろおやすみなさい。

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あの日夢見たもの

今年からまた、横浜・青葉区の小・中・高生ミュージカルが再開することになりました。上演は来年の一月末。それに向かって着々と準備が始まりつつあります。

あの日 心の翼 はばたかせ                       限りない希望 胸に抱いて                          彼方を目指し 舞い上がる                          けれどもいつか 翼折れ 力尽き                      深く沈んだ 闇の底

何もかも 信じられずに                            心の扉 固く閉ざして                              あの日夢見たものも忘れて

ある日 闇の底から 見上げれば                      はるか彼方に かすかな光                          忘れた思い 蘇る                                耳を澄ませば 呼びかける 友の声                     凍った心 溶かしてく                              

勇気だし 今踏み出そう                            つながる心 見交わす目と目                         あの日夢見たものに向かって

これは第一回青葉区小・中・高生ミュージカル『手古奈』のエンディングに作られ、今では青葉ミュージカルのテーマソングとなっている「あの日夢見たもの」(かめおかゆみこ・詞 金子忍・曲)の歌詞です。当時、私は舞台の演出に自信を失っていました。自分の書いた台本とうまく距離を置くことができなくなっていたのだと思います。それが市民ミュージカルの演出の仕事をいただき、とにかく生活のために少しでもお金をゲットしようと引き受けたのが、まさか再び演出を自分の仕事として引き受け直すきっかけになろうとは、当時の私には想像もできない未来図でした。

バブルがはじけたあおりを食って、20年続いた築地魚市場でのアルバイトを失い、演劇ワークショップを立ち上げたものの生徒さんはなかなか集まらず、正直言って五里霧中、金はなくなる一方で、稼ぎは細々…そんな私の心に、この歌はしみとおったのです…

ミュージカル(演劇の舞台)を経験すると、子どもたちは変わります。本当に変わります。人前では物が言えなかった子が、終わったあとの解散会では、時間をかけてでも自分の思っていることをなんとか伝えようとします。中にはホワイトボードに絵だか図だかを描いた生徒(当時小4か5)もいました。小さい丸と大きい丸。小さい丸はミュージカルをやる前の自分で、大きい丸が今の自分だと言い切りました。言葉は訥々としていましたが、目は輝いていたのを鮮明に覚えています。そして変わったのは生徒だけではありません、私自身もずいぶん変わりました。演出に自信を失っていたのはとうの昔になりました。それでもこの歌を聴くと、今でも胸が熱くなります。また多くの生徒たちがこの歌を歌いながら、一つの節目を経験していくでしょう。そして私も、さらにこれからどんなふうに変わっていくんだろう…

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その時はよろしく!

今度は身近なところからの訃報が届きました。中学時代の同級生のKが亡くなったのです。原因は癌。昨年の12月に、それこそ40年ぶりに再会したのですが、既に病魔が進行しており、痛み止めを飲みながら、かつての学校仲間たちと酒を飲んだり、カラオケに行ったり…私は用事があってカラオケまでは付き合えなかったのですが…「地元の祭りには欠かせない人で、いったいどうやればこううまく事が進行するのか、始めは関心するばかりでした…やがて気がついたのは、この人は子どもたちが大好きなんだということでした…」と弔辞が読まれましたが、そう、通夜に来た子どもたちが多いこと多いこと、それから、少し前まで子供だった高校生たちとかもね…

彼は中学では番長だったんですよ。といっても彼が誰かに暴力をふるったのは一度も見たことがありません。なのに、たしかにちょっとはずれそうな連中を彼が仕切っていたんですよね。教師と話しているところは、なんか大人どうし、っていう雰囲気があったし…Kが十台で結婚したと聞いたときも、彼ならさもありなんと思ったし、そう、俺の十歩も百歩も先を行ってるなあ…と感じていたのに、まったく、この世からおさらばするのまでこう早いとは…とうとう追いつく暇がないうちに行っちまいやがった!

12月に久々に彼や、彼と一緒に嘗ての級友たちに出会ったことも、今回の新作「水の花」を書くきっかけになっています。芝居には有栖川公園も出てくるのですが、あの頃、夜な夜なたむろしてたんだよね、ちょっと学校にうんざりしかけていた連中が彼を中心にさあ、有栖川公園に、でも、彼はけっして学校にうんざりしていたわけじゃないんだよね、そういう級友を放っておけなかったんじゃないのかしら…だから、子どもだけじゃなくてね、人間が大好きだったような気がします。

K、こっちもおっかけそっちに行くから、その時はまたよろしく頼むぜ!

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普通になること その1

演劇を通して初めて子どもたちと接したのは2001年、第一回青葉区小・中・高生ミュージカル「手古奈」の演出を引き受けた時でした。「井上がミュージカル?!」おそらくそれまでの演劇仲間は半信半疑だったと思いますが、こっちは何しろ演劇で少しでもお金にしたいわけですから、必死です。なんてったってミュージカル、予算のすごいこと、聞いて驚くぞ、80万!…誤記ではありません。たったの80万。舞台装置は、前回紹介した横浜のM先生が顧問を勤めるY中学が、中学生の演劇大会で「手古奈」を上演した際の舞台装置をほぼそのまま使って、節約節約!という状況でしたが、とにかくいろいろな方々にお手伝いいただき、それが最初で、以来、毎年続くようになったのですから(予算はもう少し膨らませていただきましたが)…とにかく踏ん張った甲斐があったわけですが…

その時に中学2年生だったNさんのことは忘れられません。M先生が…「あの子は教室に出て行けないので、保健室登校をしてるんですよ」…と教えてくれます。心の中で「へーっ!」と驚きます。そういわれてみると口数はたしかに少ないかもしれませんが、こちらを見つめる真摯で大きいつぶらな瞳といい、歌を歌う時のこれまた大きく開いた口といい、ミュージカルの現場(練習場)ではあんなに生き生きしている彼女がねえ、うーん!…

彼女には、兵士の役をやってもらいました。6人いる兵士の一人。台詞もけっして多くはありませんが、言ってもらいました。踊りも、これは戦いの踊りですから、かなり激しい踊りを、一生懸命踊っていました。そして、歌を歌う時の大きく開いた口と、あの見開かれた大きなつぶらな瞳!…本番が終わって、M先生を補佐してくださっていたG先生がニコニコ顔をほころばせて私に教えてくれるんです。「他の先生たちが舞台のNを見て驚いていますよ!あの子のあんな顔、見たことないって!!」…じつは私も驚いていたんです。いえ、舞台の彼女にではありません。当日は会場のロビーに出演者たちの顔写真が一人一人張り出されていたのですが、多少ははにかんで写っている子もいますが、殆どが稽古場で知っている顔顔が並ぶ中で、Nさんの写真だけが、まるで普段の彼女ではないのです。レンズから顔をそらしたいのにそらせないで、なんとかこらえて写っている写真、「えっ、これがNさん!?」唖然としました。もしかしたら、学校にいるときの彼女はこういう感じなのかしら…つまりこういうことなのです。学校の先生たちは舞台の彼女の生き生きとした姿を見て驚き、感動し、私は、ミュージカルの彼女とはまるで別人の写真を見て驚いていた、ということなのです。…そしてこのミュージカルをきっかけに、彼女は変わっていきます。普通の生徒へと時間をかけて変貌していくのですが、それは次回に。

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心ときめいて…中学演劇雑感

3月27・28の両日、横浜桜木町にある神奈川県立青少年センターで、関東中学生演劇発表会がありました。今年で6回目なのですが、回を増すごとにレベルが上がり、出場校どうしがお互いを刺激しあいつつ盛り上がっている感じがして、とても爽やかないい雰囲気の大会になりつつあります。二日間のラストに演じられたのは埼玉の久喜中学校の「春一番」。これはね、演劇をやっている中学生には是非見てもらいたい劇でしたね、というか、演劇やっていない中学生にも、いえ、中学とか演劇とかに関係ない大人にも見せてあげたい、本当に素敵な素敵なお芝居でしたね。…と、こう書き出しただけで、演じていた中学生の表情とかが頭の中に漂い始めて、思わず目の裏がウルウルしてきます。

中学校演劇と関わりはじめて7~8年になりますが、中学生の劇って高校生の作る劇とはずいぶん違うなあ…とある時から思うようになりました。レベルが低いとかいうことではなく、演劇に向かう何かが決定的に違うように思えるのです。いったい何が違うんでしょう…

高校生の演劇部員にとって、舞台で演劇をやる(役を演じる)のは当たり前のことでしょうが、中学生ではそれが当たり前でもないところがあるんじゃないのかなあ…というのは、たとえば「犬にだってなれる自由さ」というのが演劇にはありますよねえ…別に理由なんかなくてもね、ある瞬間「ワン!」と吠えて四足になってみるだけで感じられる自由さ…、というのが演劇には(特に俳優には)あると思うのですが、これは高校生なら理解するでしょうが、中学生では理解できないのではないか…

私が大人になって生で見て、初めて感動した劇は桜社の「泣かないのか泣かないのか1973年のために」という舞台でしたが、何に感動したかと言えば、舞台が銭湯であったことでした。主人公の青年が暗転幕の前で鼻歌を歌いながら衣服を脱いで裸になる。で、客席に背中を向けた瞬間、黒幕が振り落とされて、銭湯の洗い場が現れる。彼は桶を手にその洗い場で体を洗い始める。 えー!!銭湯が舞台装置になる!!へー!! しかしこの開放感、この自由さというのは、自分がある程度大人になっていないと感じられない自由さなのではないでしょうか?

演劇(あるいは表現行為全般にいえるかもしれませんが)がもつ自由さ、というのは、やはり既成概念を撃つ力があるのです。そして中学生というのが体も心も子どもから大人へと変わっていく時期だとすると、まさに様々ないレベルで既成概念を身に纏っていく時期が中学時代なのだと言えます。ということは、中学生でありながら演劇をやるというのは、既成概念を身につけつつも、同時に演劇の場ではそれを壊そうとする、あるいはそれを揺さぶろうとする、という、本来は矛盾していることを同時にやろうとしていることにならないでしょうか。

つまり、中学生にとっての演劇というのは、その巧拙に関わらず、少なからず冒険なのです。別に犬を演じなくても、自分と同世代の中学生の役を演じるだけでも、演じる、という一点でそれは既成概念を揺さぶる冒険になるのです。そこが高校演劇とは決定的に違うのです。高校演劇では既に演劇である以上、役者が舞台で演技することは当たり前なのです。ですから、問題は如何に演ずるか、ということになります。もちろん中学演劇でも、いかに演じるか、ということも問題になるのですが、その前に、演じること自体を肯定しようとする力が必要とされる、というのが中学校演劇の大きな特徴なのだと考えます。

<演じる>ということを前にしたこのささやかな怯え、このささやかな謙虚さ、これが中学生の劇に他ではけっして見られない独特のきらめきを与えているのではないでしょうか。

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仕事で勉強

…というわけで、ずいぶんご無沙汰をしてしまいましたが、ようやく新しい台本を書き上げました。タイトルは「水の花」。…自分はもう台本を書くことはないんじゃないか…そう思っていた時期もあったのですが、どうやらまた書き始めたようです。台本を書くのと、演出をするのと、役者で舞台に立つのと、その時々で何が一番楽しいかが変わるのですが、この作品では三つともやることになります。そういえば昔、シンガーソングライターのような演劇人になりたいなあ…などと思っていた時期もあったのですが、はからずもそれが今秋、実現するのかなあ…

昨年の秋、立教の授業でベケットと別役を取り上げてみました。久しぶりに読んだ「ゴドー待ち」はたいへん新鮮で、なんて面白いんだと、こいつは是非U・フィールドでやってみたいな!と興奮したのですが、次に取り上げた別役の「天才バカボンのパパなのだ」も滅茶苦茶面白くて、ああ!これもU・フィールドで…!と興奮し、しかしすぐれた戯曲をじっくり読み直す、というのはあらためて勉強になったようです。いえ、仕事で中学生演劇の台本を年に30本ぐらいは読んでいるのですが、それも勉強になっているようです。ほんと、中学生のための台本だといって馬鹿にはできません。私が逆立ちしたって書けないようなすぐれた本やユニークな本がいっぱいあります。普段、私はそれを仕事で批評するのですが、仕事しながら勉強できるなんて最高!あ、立教のベケットと別役も仕事で勉強でしたね。もしかしたら、私はたいへん恵まれているのかもしれませんね。

そういえば、立教の授業は15人の学生が相手だったのですが、彼らがけっこう授業を、というか、ベケットと別役を面白がってくれて、それもこっちをいい意味で刺激してくれたようです。とにかくいろいろなことに感謝しつつ、新年度が始まったようです。

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カラマーゾフの兄弟2

昨日、父親であるフョードル・カラマーゾフを実際に殺害したのはカラマーゾフ家の料理人スメルジャコフだと書きましたが、このスメルジャコフというのが、なんとも魅力的というか、恐ろしいというか、醜悪というか、とにかく実際の生活では絶対知り合いになりたくない人間なのですが、しかし、いるんですよね、こういう人間…もしかしたら私の中にもスメルジャコフ的人間が住んでいて、ある日ある時…と思うと…おお、寒ッ!

既にお読みの方はもちろんご存知なわけだけれど、このスメルジャコフは父フョードル・カラマーゾフが、街を徘徊するのを常としていたリザヴェータ・スメルジャーシチャヤに孕ませた子どもではないか、という噂があるんですよね。それで母親は彼を産むとすぐに亡くなるんだけれど、カラマーゾフ家の使用人であるグリゴーリィ夫妻が彼を育てるわけなんですが、子どものころから、猫を縛り首にして葬式ごっこをしたりしていた、と書かれているんですよね。母親のリザヴェータは、たぶん知恵遅れというか、痴呆のような女だったのだと思いますが、産気づいた時に、柵を乗り越えてカラマーゾフ家の庭に侵入するんですよね。それで、グリゴーリィ夫妻が世話をすることになるんですがね。そのことも、フョードル父親説が流れる根拠になるわけなんですが…なんか、街を徘徊する痴呆の女に孕ませた子が大人になってその家に奉公していたり、父親の遺産をめぐってのやり取りなんかをよんでいると、瞬間、横溝正史の小説が脳裏をよぎるんですよ、「金田一さん!」という声とともに…

だから、たしかにロシアの小説なんだけれども、日本のちょっと昔に近いところがあって、そこも今回なんだか夢中になった原因の一つなんじゃないかなあ…

小説の最後近くで、このスメルジャコフとイワンの場面が三回出てくるんですが、イワンがどんどん追い込まれていくんですよねえ。いえね、思うだけなら誰だってあるじゃないですか、「あんなやつ、とっとといなくなればいいのに=とっとと死んじまえ!」って、心の中で叫ぶことくらい。それが、誰かによって実現されたとしたら、これは嬉しいというよりは怖いですよね。それも、あなたに確認したら、あなたはやれって言ったじゃないですか、と言われてしまったら…意識の領域から無意識の領域へというか、自分の無意識を覗き込んでいく感じになるんですよ、ここらあたりからイワンはね。そしてとうとう幻覚=自分の分身=悪魔を見るようになっていって、精神の病に陥っていくわけなんですが…

そして、スメルジャコフは自殺してしまうんですね。これは参りますよね。スメルジャコフはイワンの鏡だったのかもしれませんね。自分を見るために必要な鏡だった、自分の無意識をも見るための鏡だったとすれば、その鏡が自殺によって壊れてしまったのだとして、それでも自分をさらに見ようとすれば新たな鏡を作りだすよりほかなかったのかもしれないですね。その新たな鏡が幻覚症状なのかもしれません。

きょうはここまで。おやすみなさい。

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カラマーゾフの兄弟

「カラマーゾフの兄弟」をやっと読み終えました。というか、自分だけの時間が許されるなら、途中からは食事も忘れて…いえいえ、食い意地がはっている私の場合忘れるのは不可能としても、せめておにぎりかサンドイッチを片手に、カップ麺を啜りながらでも読み続けたら三~四日で読みきってしまえたかもしれませんが、親戚で急な不幸があったり、授業のネタにベケットやら別役やらを読み直さねばならなかったり(これが予想を超えて面白くて、読んでいて嬉しくなってしまったのですが)、中学校の演劇大会が続いたり(12月は大会が四日あって、計28校が上演したので28本台本を読んだのでありますが、これも楽しみでやらせていただいている仕事ですので、つまりは幸せ者だと思うのですが)…泊りがけでお通夜と葬儀に出かけるカバンの隅に文庫を忍ばせてはいたものの、久しぶりに会う従兄弟やよくつながりが分からない人と話すうちに、ああ、あなたがあの…などと昔疑問に思っていたことが腑に落ちたりしたものの、文庫は開かれず…とにかくそんなこんなで、二ヶ月かけて読みました。

面白いです。今すぐもう一度最初から読み直したいくらいです。なんせ頭の回転が鈍いから、分からないまま読んでいたり、大事なことを読み落としていたり、きっといっぱいいっぱいそういうことがあるはずなので、自分の時間さえたっぷりあれば、ああ…カップラーメン啜りながらカラマーゾフを読み直したい!

なんせ、犯人が三人もいるミステリーがありますか?いやあ、ちょっとね、なんか中心が空白、って感じなんです。つまり、三兄弟の父が殺されるわけですが、その犯人として逮捕され裁判にかけられるのは長兄のドミートリー(愛称ミーチャ)なんですが、実際に殺害したのはスメルジャコフというカラマーゾフ家の料理人なわけです。しかし、彼をそそのかして殺すように仕向けたのは次兄のイワンなのです。しかし、イワンはイワンで、仕向けたつもりはなかったんですよね、ところがよくよく振り返ってみると、たしかにスメルジャコフをして父を殺させたのは自分かもしれない、いや、自分が殺させたんだ、というふうに自分の意識というか無意識に入り込んでいくところ、それもスメルジャコフがそこへイワンを誘導するわけですが、そのあたりは鬼気迫るというか、本当に殺意があったのかどうか、そこのところが意識から無意識へと入り込んでいて、そこがなんだかとってもスリリングで、ちょっと現代の小説でもないくらいに現代の何かを照射しているように思えるんだけれど…

それと、長兄のドミートリー(ミーチャ)…もし映画を作るなら、三船敏郎ですね、この役は。ポケットから札束をはみ出させながら、恋する女を楽しませようと、湯水のごとく金を使いながら、ジェットコースターに乗ったように破滅に向かって突き進んでいく感じは、ううん、三船で見たい。…でも、ひとり、舞台作品にできたなら、最近出会ったある役者にも、この役はやらせてみたいかな…

ということで、今年はハイテンションで幕を開けたようです。

本年もよろしくお願い致します。

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中学生演劇

私は仕事で中学生の劇をよく観ます。これがけっこう楽しいんですよね。それはね、時として眠くて眠くてたまらない劇もあったりして、しかし講師を引き受けた以上、コックリはできませんからねえ、その場合拷問のような15分とかがあったりもするのですが、しかし、総じて言えば、やはり面白いんですよねえ。で、今日7本観てきて、それで明日が6本。一応台本にも目を通してから、観ることにしているんですが、さっき読んだ「ハロウィン狂詩曲」というのが面白そうなんだよね。「あっ、孤独だなあ、この瞬間、この女の子…」「あっ、ちょっとグサッときてるよ、この子の心…」とか思わせてくれる台本ですね。明日の舞台が楽しみです。というところで眠気が襲ってきたようです。舞台の報告は今度書きますからね。

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再スタート

さあ、来年からUフィールドが新たに再出発します。「孤独な老婦人に気をつけて」が終わって、北村青子がUフィールドを去り、武内紀子と こばりかずみ が休団、森屋由紀も実際の活動は三年見送りたい、ということで、実働部隊は私と小林千里の二人だけ、となってしまいました。でも、めげてはいません。ここから、本当にやりたい仕事ができるはずだ、という確信があるからです。

ということで、さて、まず何をやってみたいか。たとえば、谷崎潤一郎の「瘋癲老人日記」のリーディング(昔から一度やってみたかった!)・ベケットの「ゴドーを待ちながら」(久しぶりに読み返してみて、メチャクチャ面白い!)・別訳実の「天才バカボンのパパなのだ」(これも負けず劣らず面白い!)…オリジナルでは北村との共作「森の奥へ」を大幅に書き直した「ハッピーバースデー ミスターK!」などなど…新作は(今、なぜか流行らしい)ドストエフスキーを下敷きにしたものを構想中(たぶん、出来上がるのは2年後くらい)…と盛り沢山なのですが…さて、どれで再スタートをきるか、決定するまでもう少々お待ちくだされ。

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気がつくと年の瀬

気がつくと年の瀬、何かに追い立てられるように月日が過ぎていくようです。おかげさまで、テアトルフォンテでの「U・フィールド版 孤独な老婦人に気をつけて」も無事に終え、これまでなら、しばらくは何も考えないで好きな小説でも読みたくなるところなのですが…

忙しい、というのが嬉しい時もあるものです。必要があって読み返した「ゴドーを待ちながら」が予想を超えて面白く、自分でも演じたくなってみたり、もうやることはないと思っていた旧作「すみれの花の咲くころ」を改作して上演することを人から進められたり、そうそう、10月の本番が終わった直後、書きかけだった新作「ハッピーバースデー ミスターK !」を10日間ほどで完成させました。とにかく、来年からどう動きだそうか、やりたいことがたくさん出てきて、その整理をこれからしていきたいと思っています。そんな間を縫って、好きな小説も読んでいます。「カラマーゾフの兄弟」いや、圧巻です!

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さてと、これから…

実に久しぶりにこのページを開いています。いざ、作品に取り掛かると、思いは脳内を駆け巡って、いっこうに言葉になりません。言葉にしようと思いを追いかけると、いつの間にか息切れがしたように、死んだような言葉しか浮かんでこないのです。ということで、しばらくのお休み状態をご容赦ください。

ともかく、4月から始まったWSも、この13日で21回を終えることができました。この間に、皆さんの顔・姿・声などなどを思い浮かべながら、台本の練り直しも進んでいます。さあ、いよいよ劇団の稽古も始まって、10月公演がますます具体的になりつつあります。

そんな時、訃報が届きました。最後のWSの日。その日の午後、森屋と二人で病院へ行ってきたばかりだったのに…ベッドの横で、激しく後悔しました。もっと早く来ていればよかった。二年前に癌を患った父が最後は肺炎で逝ったのですが、その最後の姿とそっくりでした。このまま目の前で息を引き取っても不思議じゃない…そんな思いがサッとよぎります。話しかけたいのに、声も出せませんでした。

転形劇場の劇団員の誰にとっても、太田省吾は特別な存在だったように、私にも特別な人でした。その人が近いうちに